人間閉包

構造の話をする

Rolling Troll, Flooring Loaring.

 たくさんのトロールを見たが、いまのところクローズドコミュニティで「割れ(ソフトウェアなどの違法コピー)」を公言してないトロールを見たことがない。彼らは悪事が目的ではないという点まで含めて、不思議なくらい似通っている。屈伸煽りと死体撃ちの不快感にのせて、自分の抱える痛みを発信している。

 臨床レベルの通説にしてくれていい。

 

 

 

1、チーム対戦ゲームにおいて、味方を勝利に導くために主要な活躍をすることを「キャリーする」という。

 

 キャリーして勝つのは難しい。実力が拮抗した5人対5人なら、自分がMVPとなる確率は単純に10%しかない。そのうち明らかな功労者といえるほど活躍したゲームは高々5%もあればいいところだろう。

 1ゲーム30分あるゲームで自分がキャリーできる確率が5%ってことは、600分プレイして少なくとも一回でも「自分がこのゲームを動かした」と胸を張れる確率は高々70( \fallingdotseq \frac{e-1}{e})%ってことになる。

 この数字をどう解釈するかは人それぞれだが、おれはこう思う。

 「自らの力で勝敗を決定すること以外の楽しみを見出せない人間は、チーム対戦ゲームへの適正がまったくない」

 

 

2、チーム対戦ゲームにおいて、わざと味方に不利になる行動をすること、あるいはそれを行うプレイヤーのことをトロールという。
3、その他暴言を吐くこと/プレイヤーを「トキシック」という。

 

 トロールして負けることは、キャリーして勝つよりもはるかに容易い。兵力は(素早さ×質×数の2乗)で概算できると誰かが言ったが、それに従うなら5vs5のゲームで自分ひとりが戦闘を放棄すると兵力は25vs16となる。
 少なくとも、5%よりはよっぽど優位な確率で試合結果に寄与できる。
 暴言を吐いた味方がレスポンスを返してくる確率も、5%より高い。

 

 これはすさまじいことのようだ。「ようだ」というのは、おれにとってはどうでもいいことだが、一部の人間にとってはほとんど中毒的な快楽があるらしい。

 

 対戦ゲームでは勝敗によって「レーティング(将棋や囲碁の級とか段に近い)」が変動して、それが強さの指標になる。
 昨今の対戦ゲームは暗に陽にそういうモードを備えている。それはサーバー側で勝敗結果をイロレーティングという計算式にぶち込んで得られる数値を管理しているだけだが、おれはそれに夢中になったことがある。負けず嫌いだから。

 イロレーティングは必ず、自分の実力にふさわしい数値に収束するようにできている。対戦相手は自分と同レベルになって、必然的に自分がキャリーできる確率は(1/参加人数)%になる。

 プレイヤーの上達に伴ってレーティングも上昇していくが、それにも限界がある。上位10%になれるのは常に全体の10%しかいないのだから、仕方のないことだ。

 

 レーティングが上昇しなくなるのは本当に苦しい。

 そうでない人間もいるだろうが、おれはそうだった。このゲームでも次のゲームでも、自分が結果に寄与していると感じられない。勝率は500戦で49%に落ち着いて、時折訪れる調子のいいゲームだって、負けの揺り戻しにしか感じられなくなる。自分の実力がゲームを変えたと胸を張れない。おれは静かにゲームをやめた。

 

 

 

 もう言いたいことはわかるだろうから、これ以上は書かないことにする。自己効力感を得るという目的意識は、容易に人をトロールやトキシックに駆り立てる。

 

 それなりにたくさんのトロールをゲームで見てきたし、コミュニティで見てきた。
 彼らと話したこともたくさんある。トロールだけでなく「スマーフ(わざと自分の実力より低いレーティングでプレイして活躍する)」も同じだが、彼らは決してナチュラルボーンの悪役ではない。確かに倫理観が地に落ちていて目を覆いたくなることが多いが、その裏にある絶望も同時に垣間見える。

 

 社会的にはそれなりに普通、なんなら「良い」立場にいることも多い。家庭環境に何かしらの問題があったことが多く、実生活はWell-livedじゃない。それなりにコミュニケーションもできるが、彼らの実生活には効力感が(彼らの理想に対して)欠けている。舐める舐められる世界観に生きている。
 誠実な面があり、普通のやつよりもむしろ「謝る」という行為自体の回数は多い。けれどとくに対人関係の過ちは必ずくり返す。
 一見して悪くは見えないし、仲間には優しくする。それと乖離したように悪事を行い、言わなくてもいいのに仲間にみせびらかして静かに信頼を失っていく――そう! Trollは決まって悪事を誰かに言うんだ。もう一度言おう。

 

 たくさんのトロールを見たが、いまのところクローズドコミュニティで「割れ(ソフトウェアなどの違法コピー)」を公言してないトロールを見たことがない。たぶんもうちょっと社会的な人間なら、「割れ」が「性的搾取/いじめ」になるだろう。これは"そういう枠"――つまり、ありふれた普通のやつだ。

 

 

 跳梁跋扈するトロールたちの叫びが聞こえる。
 自己存在の圧倒的な無力感に底が抜けた部屋だ。落下して死なないために床を敷く。それが必要なら、おれだってトロールするかもしれない。

 ここでおれが聖人であると声高らかに叫んでもいいが(おれの手はまだ石を投げられるくらいには綺麗だが)、それは最適解ではないはずだ。

 

 彼らは圧倒的な不快感を与えながら痛みを発信する。その痛みは批判から身を守る防壁だ。彼らは批判を受けても、自分の痛みを理解されなかったのだと拒絶する。
 かといって手を差し伸べるには、彼らはあまりにも貪欲で怖い。

Q in R, 殺意のないArtificial Induction

 「殺意がない」? そんな言葉で説明を終わらせるな。
 おれは天才の言葉をかみ砕かないといけない。再現性の薄さに甘えているやつらを玉座から引きずり降ろしてぶん殴るんだ。

 

 

 理論計算機科学をかじっている人間なら、AIなんて高々 \aleph_0の中に囚われている存在であって、それが \mathbb{R}を表現する方法は無限精度の近似でしかないと当たり前に理解している。それに計算可能でない実数だって存在する。それこそ \mathbb{Q}の濃度よりはるかにたくさんね。

 

 けどAIが無力だと言いたいわけではなく、要するにGenerativeAIは 1.4142……と出力してくれるのだから、あとは人間が \sqrt{2}をぴたりと言い当てればいい。そしてそれは一見とても簡単に見える。自明すぎてやり方すらわからない。

 だから、その行間を埋める試みくらいはあっていい。

 

 

 ちゃんとGPT4やStableDiffusionと向き合っている人間なら、おそらくAIの「癖」を一言であらわす語彙を持っているだろう。イラストを描く人間は「平均的」「のっぺりしている」「意図がない」というのが多いが、おれは「帰納的」「非線形」という言葉で語るのが好きだ。一方で人間の描いたイラストは「演繹的」で「線形」に見える。


 喩えは非本質で、おそらくその概念に辿り着いているやつらはみんな同じことを思っている。AIには殺意がない。『裏世界ピクニック』の宮澤伊織はこんなことを言っている。

今の世の中、創作は誰でもできる。(中略)そんな中、特に商業で小説を書こうという人間が、頭一つ抜けるような、力のある作品を書くために必要なのは、情熱、執念、愛、狂気といった言葉で表現される、誰にも真似できない何かだ。私はそれを殺意と呼ぶ

(第14回創元SF短編賞選考経過および選評 http://www.webmysteries.jp/archives/32418024.html より。2023/8/16)

 

 さて、殺意ってなんだ? こんな曖昧な言葉で済ませていいのは天才だけだ。

 

 TuringMachineとGenerativeAIの最大の違いはその根本的なモデルだ。
 TuringMachineが有限決定的(Finite Deterministic)な演繹であるのに対してGenerativeAIは統計による帰納だ。だから簡単な数学の問題を間違えうる。GPT4は2+3を間違えないが、定数時間で実行できない。AIはもはやラーメンを手で掴まないが、それは近似精度が良くなっただけに過ぎない。もしおまえが「AIはラーメンを/指を/複数人の絡みを克服した」と思っているのなら、おそらくお前は何も理解していない。少なくとも今のモデルのままじゃ、AIはどれだけ進化してもラーメンを克服できない。

 SawToothでググって出てくる波形フーリエ変換すると、無限個のSinWaveからできていることがわかる。100Hz, 200Hz, 300Hz……というSinWaveを集めてそれらのAmplitudeを少しずつ下げていって重ね合わせると100HzのSawToothになる。でも有限時間でいくらSinWaveを集めても、完璧なSawToothにはならない。

 人間がSawToothを描くなら直線を描くだろう。その瞬間、誰もがAIに勝利している。

 本当にそれだけのことだ。逆にそれ以外でおれは勝てる気がしない。
 そこで直線の複雑性を爆発させればいい。おれたちが定数時間で行えるがAIが近似でしか行えない操作を埋め込めばいい。それが「演繹」「線形な操作」だと、おれは考える。

 何度も引用するが、『非線形空間のほうがエロいだろ』で書いた"Linearity"だ。AIはLinearityをNon-Linearな帰納による近似でしか表せない。手癖で書かれたビジネスライクな読書感想文よりも、中学二年生が頭をひねって考えた"ものがたり"の方がLinearだ。AIはNon-Linearityによって圧倒的にクオリティを上昇させるが、そこにはLinearityが欠損している。

 

 ここまで考えれば宮沢伊織が講評に書いた「殺意」の正体が見えてくる。殺意とはまっすぐで純然たる意図であって、線形な、そこに物語や絵の全体を従属させるだけのカリスマを持った、細胞だ。
 細胞とはつきつめれば「内と外を区別する存在そのもの」と特徴づけられる。その"内"が細胞であり、創作の主体となってそれ以外を奴隷にする。

 GenerativeAIの作品は文字通りの"単細胞"でしかありえない。
 だが殺意のこもった創作は違う。作品のどこか、あるいは画の外部に一つの原始細胞がある。確かに外部と隔絶されたそいつは、その作品を構成するすべての細胞の親であり、統治者だ。

 この構造こそがLinearityだ。ただ細胞のおこなった演繹に従って空間のなかに浮遊している構造素子たち。そこからNon-Linearな飾り付けをすることで作品になる。

 

 

 Linearityは人間が人間である限り絶対に発露してしまうものだが、それを意識的に使えというのが宮澤伊織のメッセージなんじゃないかとおれは思う。
 それはまさしくおれがAIと相対する人間に対して思うことと同じだ。

ストリートファイター6(オタクビュー)

 スト6のビジュアル(戦闘画面)についてのおぼえがき
 たぶん業界内部の人間から見ると当たり前なんだろうなと思うが、轍を踏んでいかないと話が始まらないぜ

 

【背景】

・センターライン、画面端がそれとなく明示されている(オブジェクトの境界、あるいはライティングなどにより)

・有効な地面が区別されている(どこがゲームシステム的に設置判定があるのかがわかる)
・片方の画面端まで行ったとき、何かしらのセンターオブジェクトが"隠れる"ようになっている気がする(中央のラインの少し横くらいのオブジェクト)

・とくに画面端に行ったときの背景が「一つの絵」になるような背景になってる。右端、中央、左端がそれぞれ一枚絵で、それが40~45%ずつくらい隣と重なりながらなめらかに接合しているような印象

・とくに遊園地の背景を作ったやつは明らかに構造のオタクだとしか思えない。有効な接地面と壁だけライティングが違う。体力バーが青色の右側に同じく青色のコースターを設置し、赤色の左側には赤色のLEDがある。キャラクターのShadingが気にならない程度に不自然に浮いている。端までいくと中央の通りの奥が見えなくなる。高く飛んではじめて三角形の旗がよく目について"高い"ことがわかる。プレイヤーの頭より少し高いラインに一本の横線が引ける。

 

【UI・エフェクト】
・UIにはほとんど意図的に"速度"がない。なめらかな変化をしない。例えばHPバーが揺れるみたいなこともない。その増減は1Fで行われる。

・端の「COUNTER」などの表示は現れるときは気持ちよくあらわれるし、消えるときは意識を刺激しないように消える。

・エフェクトはかなり"ザクッ"とすぐに消える。エフェクトの発生回数が多い分、それが後続に残って混ざらないようになっている。

・周辺を一瞬だけ歪ませるエフェクトがかなり気分いい。よく見てるとわかるが、画面全体が一瞬(2Fとか)ぶわっと動いたり、有効地面よりもっと下のごくわずかな部分にエフェクトを出したりして効力感を出している。

・下にも書く速度の話がここにもある。速度の高いエフェクトは一瞬で消えて、わずかに持続するのは速度の低いエフェクト。

・画面全体を動かすのかなりいい。好きだ。

 

 

【キャラクター】

・明らかに影が"不自然"(それによって背景から遊離している。これは意図的な"Linearity"だと思う(記事『非線形空間のほうがエロいだろ』参照)。あえて背景から遊離させている)

・同じく摩擦も不自然。なめらかに動いていて気持ち悪いがそのおかげで浮いている。

・手と足の位置が常に分かりやすい。手首や足首に装飾をつけているキャラクターが多いのは偶然ではないと思う。それにキャラクターの手/腕は不自然に大きくしてある。

・キャラクターの動きと背景の動きは、速度帯にgapが作られている。(操作キャラクターのあらゆる動きは必ず一定以上の速度で、背景はほぼ必ず一定以下の速度で動く)

・キャラクターが被ったとき、UIの方が後ろになる

 

 

 

 これをやるにはゲームシステム、ゲームデザイン、UIデザイン、キャラクターデザイン、モデル、モーションの人間のあいだで交流というか話し合いがなきゃいけないわけで…………。いかに開発チームのビジョンの共有とかコミュニケーションが重要なのかってことが伝わってくる。
 就職において「コミュニケーション能力」が最も重要だとされるのはつまりこういうことで、それを技術力で押し通そうとするのならすべての末端に対し精通している必要がある。そしてたくさんのことに精通している人間は滅多にいない。とくに技術力で押し通そうとする人間にはね。
 おれだってこのゲーム作るならコミュニケーション能力を最重要視すると思う。

 あーあ、就職ねえ……

非線形空間のほうがエロいだろ

 デジタルミュージックとデジタルイラストの最低最悪な点は「Non-Linearity(の欠如)」だといってもいい。おれはそう思っている。

 


 それを補完するのが音楽だとMixing、イラストだとLighting(Shading)と称される工程であって、それは間違いなくPCができてから凄まじい進化を遂げた芸術だ。
 デジタルアートが上手いやつらはみんな、非線形性によるIntegrationを本能的に行ってる。

 

 1cm×1cm×1cmの立方体に裏から光を当てる。立方体の正面はどうなる?
 ちょっと考えればわかる。ふちが丸い四角形の影ができる。

 

 じゃあ1m×1m×1mなら。答えは同じか? まあ同じだ。

 

 なら、それは1cm×1cm×1cmの立方体の写真を100倍に拡大したものと同じか?

 線形代数を知らなくたって答えられる。その二つは、決定的に違う。

 

   f という関数を立方体の影を取る操作だとして、 f(100 \times 1) 100 \times f(1)は違う。この" 100をかける"という操作と、" fに入れる"という操作の順番が問題になる。線形代数を知っているやつらはこの現象を語る言葉を持っている。

 非線形性(Non-Linearity)だ。



 現実世界は非線形の塊といってもいい。天気予報は非線形偏微分方程式を解く作業だ。

 そしてクリエイターが「リアリティを増す/クオリティを増す」ために行う行為のほとんどは非線形性をはらんでいる。
 どうして芸大の受験生は水や歪んだガラスを描きたがるのか。それは不規則な屈折という現象が非線形性の象徴だからだ。どうしてそれなりに楽器をやっているやつが「超高速ピアノ」みたいな動画を鼻で笑うのか。それは非線形性を無視した技巧だからだ。どうして素人はそれに感嘆するのか。非線形性に向き合ったことがないからだ。

 

 初心者の創作物はみんな単調でつまらない。
 けど、下手くそを4人あつめたバンドだって目の前で聞けばそれなりにノれる。幼稚園児が鍵盤を殴るピアノもストリートで聞けば笑顔になれる。全部の絵の具を混ぜた黒色だってなんだかおもしろい。
 少なくとも、SNSに溢れる下手くそなファンアートだとかとりあえず楽器を鳴らしただけのVocaloid楽曲よりも、よっぽど鑑賞に耐えうる。ただ現実でPerformanceを行ったというだけの事実が、作品をここまで良くしてしまう。不思議な話じゃないか?

 現実のNon-LinearityはMagicだといってもいい。そこでは物理法則がおれらの作品のすべてに完璧なShadingとMixingをしてくれる。

 

 「下手な絵」や「下手な音楽」はすべて、そのComponentが一つの空間に統合されているという実感を完全に欠いている。逆に、それが「下手」の定義だといってもいい。だってそうだろ? おまえが小学生のころに書いた絵にあるのは、人間じゃなくて髪と目と頭と首と服と掌と五本の指だ。おまえがリコーダーでかつて吹いたのは楽曲じゃなくて単音の連なりだ。

 それらは浮遊していて、別の空間から切り貼りして持ってきた材料であって、レシピの材料欄にすぎない。それを煮たり焼いたりNon-Linearな変換をするから料理になるんだろ。一人分の料理を作るより二人分を作る方が美味くなりやすい。 2f(x) \neq f(2x)だ。


 現実ではすべてのオブジェクトは互いのLightingとShadingに影響を及ぼすし、すべての音は互いの音に干渉する。現実っていうのはそういう風にできている。

 PC上ではそれらすべてを指定して、Non-Linearityというスパイスを振りかけてやらなきゃいけない。それを語るための言葉は巧妙に散らばっていて、絵なら123影だのAngular perspectiveだの、音楽なら(Gluing)CompressionだのSaturationだの、まあ調べれば出てくるだろうが、その本質はすべてNon-Linearityだということを忘れてはいけない。

 

 SNSのタイムラインにえっちなイラストが流れてくる。首筋にキスマークがついている。だが線形空間の口紅はやがて身体から剥離する。非線形空間の内出血痕は首筋に焼きついて、インターネットが壊れるまで離れない。
 そのほうがよっぽどえっちだろ。

Complexity102

 今年もコミケ行ったぜ。



 コミケ(Comiket)に出てるサークルのポスターには、すさまじい格差が存在する。けどそれは"神絵師の腕の有無"じゃない。会場を歩けばすぐにわかるが、絵の上手さ(ここではミクロという言葉をつかう)は一定の足切りラインさえ超えてしまえば大した問題じゃなくなる。

 

 とくに壁じゃないサークルのミクロ能力なんてキャップ(頭打ち)されていて、正直なところどれも変わらない。圧倒的な筆致でオタクを引き寄せることなんてできないけど、まあ上手いじゃん? というレベルで横並びだ。

 けれど明らかに目立つポスターとそうでないものはあって、その差はどう考えても思考能力だとしか思えない。

 

 ミクロ能力は十分あるのに余計なComplexityだけ増大させて、コミケの雑踏のなかに埋もれてるポスターを見るたびに、おれは「こいつはおれよりも努力して、おれよりも絵が上手くて、そしておれよりも信念があるのに、おれが何故か持ってるこの無駄な思考がないというそれだけの理由で、果てしない可能性をつぶしているんじゃないか」と恐ろしくなる。

 

 冷静に考えてくれよ。おまえがコミケに10回参加して、そのたびにサークル出店してイラスト集を出して、そしてできるだけたくさんの人に見てもらいたいなと思っている。でもそんなに売れない。せいぜい20部ってとこだ。自分の絵はそんなに下手じゃないと思うのに。そうやってComiketを楽しみながら悶々とした気持ちを抱えて帰る。

 おれは本当に怖くなってきて、昔はじめていったコミケでずっと考えていた。

 "昔から絵が好きだった。絵がちょっと上手くて、褒められて、嬉しかった。できればもうちょっと上手くなりたかったけど、でも自分の才能はここまでなんだと思っている――" そんな気持ちを抱えながら十数年も絵(創作全般そうだが)の本質がComplexityとContrastとColoringとCo-relationだと気付かないやつがいるのか?

 おれは壁サーと大して変わらない画力の島中に立ち尽くして、考え込んでしまった。

 

 何のために。否定するために。

 おれが持っているのかもしれない、才能と呼ぶほど貴重でもないが、けれど歴然と存在している思考能力のことを。

 もしかしたらおれに必要なのは数年間をミクロに費やす狂気だけなんじゃないかという自惚れを必死に否定していた。だってそんなわけないだろ。それはすべてを都合よく捉えるオタクの思い上がりじゃないのか?

 それにおれはCowardなんじゃないって。
 ここにいるやつら全員はちゃんとCoherentで、けれどこれは単純な、至極単純なミクロの限界によってこうなってるだけなんだって。

 

 たとえば自分の絵のコントラストの高さが、低さが、彩度の高さが、低さが、影が、光を受けた線の細さが、太さが、瞳孔の輝きが、肌の艶が、全体の色調が、影色の種類が、誇張が、"あの絵師がやってること"が、キツすぎたと後悔した経験はあるか? もしそれが一度もないのなら、極めて高い確率でおまえの絵にはそれが致命的に不足しているとは思わないのか? 絵の話をしてるわけじゃない。

 閾値を超過する直前が、Complexityの最適量だと思わないのか?

 

 頼むよ。頼むから、それなりに有名なサークルのポスターとおしながきを買って、あるいは印刷して、自分のポスターを印刷して、隣に並べて、自分のポスターが目を惹かない原因について向き合うということをしてくれ!

 スポイトで色を取って、その差について考えて。
 優れたゲームのエフェクトを解析して、真似して。
 線の太さと抑揚を真似して、影と光について考察して。
 そういう作業に従事してくれ、いや、従事していてくれ!

 

 じゃなきゃおれは発狂してしまう。おれがなれたかもしれない可能性に押しつぶされて。おれが狂気的でさえあれば成しえたかもしれない、たくさんのものごとに。

 

 Communicationが優れていたらすでにおまえはその立ち位置になんていない。だから、一人で孤独にComplexityと向き合って、おまえの、おれの創作のなにがCorruptionなのか知らないといけないだろ!

 

 コミケに行ったことがないのなら、とりあえず次のコミケに行ったほうがいい。

 そしたら男性向けR18に行って、ずらっと並んだポスターを見るんだ。そこで残酷だと思えないのなら、おまえはもう救えないかもしれない。

 仮にもそれを見て「搾取」と笑うという視点しか持てなかったのなら、おまえには本当に創作のセンスが無いから一生そのままでいたほうがいい。